日本のメディア コミュニケーションの 特質

0000016680 00000 n 愛は一人あるいは何人かの他者の個人的な自己理解や特殊な世界観への方向付けを通じて選択遂行を伝達するのである。[このこと、つまり]体験処理の具体性とそれが個人に合わせて切り詰められていることに、このメディアの特別の機能も依拠している。愛はある二重化された意味確証を媒介するのだ。すなわち、よく言われることだが、ひとは愛の中に自己自身の無条件的な確証、個人的なアイデンティティの無条件的な確証を見出すのである。ここにおいて、そしておそらくここにおいてのみ、ひとは自分が現にそうであるところのものとして受け入れられていると感じる――留保も期限もなく、地位への顧慮も功績への顧慮もなしに。ひとは他者の世界観のなかで自らがそうありたいと努めているものとして予期されているのを見出す。他者による予期が自分自身による予期と、つまり、自己投影と一致するのである。 ルーマンは「二重化」の意味を全く説明していないのだが、私たちは文脈上、この言葉を、愛する者による愛される者の個別の選択の確証が、その確証が具体的で個人性に照準していることによって、愛される者にとって、自らの個人性全体、すなわち、「アイデンティティ」の確証としても感受されることを意味するのだと解することができよう。 だが、この「二重化」へのシームレスな移行に私たちはある疑問を抱く。愛される者の立場に身を置いてみるとして、確かに私の具体的で個人的な選択が次々確証されるとはいえ、それが例えば私の明示的要求に限定されていたとしたら、それを私は私の「アイデンティティ」の確証として感受できるだろうか。 私を愛する者と自称する者が、ラーメンが食べたい、12インチの新しいMacbookと5Kの27インチiMacが欲しい、越谷レイクタウンに行きたいといった私の明示的要求に唯々諾々と従ってくれるだけの時、私は何か虚しさを感じないだろうか。それはアイデンティティ、私の個人性の確証の経験とは程遠いのではないか。二重化は自明ではなく、そこには条件があるように見える。 このような条件の問いへの答えになるような理論的契機は私たちがその論脈を追ってきた69年のLUの第1章には見当たらない。しかるに、この問いを胸に抱きつつ82年のLPの第2章に赴くなら、ルーマンはそれをこの問いへの答えとして提示しているわけではないにせよ、私たちはそこにこの問いへの答えとなるような理論的契機を見いだすことができる。こうして私たちはルーマンが提出する第三のメルクマールに移行する。 82年にはルーマンはメディアについてまた別の視点からの類型学を展開している。メディアが媒介する選択を発する者をAlter、その選択を確証し、あるいは拒絶する者をEgoと呼ぶとすると、各メディアについて、AlterとEgoがそれぞれ行為するのか体験するのかに応じて四つの類型が生じる。 その類型学においてルーマンは「愛」をAlter erlebt, Ego handeltとして、つまり「他者は体験し、私は行為する」として特徴づけるのである。 さて、愛というメディアにおいてAlter、すなわち、選択を発するものは「愛されている者」であり、Ego、選択を確証したり拒絶したりするのは「愛している者」である。 では、「愛されている者は体験し、愛している者は行為する」とはどういう意味なのだろうか。ここで少々長いルーマンの言葉、その書き方の晦渋さが私たちの心を惹きつける一節を引くことにしたい

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メディア・コミュニケーションについて説明しなければならなくて困っています。インターネットで調べていてもばらばらの言葉になって出てくるのでどういう意味なのかわかりません。具体例を入れて説明したいので知っている方は是非教えてください。あと「コード化」「オーディエンス」 0000001305 00000 n 聞きなれないことばですが、メディアコミュニケーションとは「メディアを使ったコミュニケーション」のことです。メディアには、テレビ、新聞、本、電話、手紙、電子メール、ウェブ掲示板、ブログ、さらに映画、演劇、音楽、ゲームも含まれます。 メディアコミュニケーション“学”は、このような多種多様なメディアを通して、人間が社会で行っている行動を研究の対象にしています。キーワードは「情報」です。メディアコミュニケーション学では、情報・知識がメディアを使ってどのように生産さ … 0000011049 00000 n さて、コミュニケーション・メディアがそのようなものであり、そこに「貨幣、権力、愛、真理」がさしあたり数えられるとして、この中で「愛」の特質はいかに規定できるだろうか。ルーマンは三つの視点を提供している。順に見ていこう。 0000008125 00000 n メディア(media)とは、情報の記録、伝達、保管などに用いられる物や装置のことである。 媒体(ばいたい)などと訳されることもある。記録・保管のための媒体とコミュニケーションのための媒体とに大別することができるが、両者には重なりがある。

∟∟∟∟∟∟∟∟∟JASRAC許諾番号:9008249113Y38200Copyright (C) 2020 Yahoo Japan Corporation. さらに観察者自身も(少なくとも愛が問題であるときは)、他者の環境の部分、しばしば重要な部分なのである。それゆえ観察者は自らのシステム限界にぶつかるだけではなく、いわば世界のうちで不可避的な自分自身への自己参照にぶつかるのである。 私たちは別のシステムの環境への関係という直接には観察し得ないものを見なければならないだけではなく、別のシステムの環境のうちに自らを見なければならない。これがなぜ困難なのだろうか。 ルーマンは何も説明していないが、私たちはまず一般に他人が自分について本当のところどう思っているかに向き合うのが非常に難しいことに思いを致すことができる。 例えば、普段それなりによく話すが自分について何か率直な意見を直接ぶつけられたことのないAさんがいるとして、共通の知人のBさんに「Aさんがあなたのことについていろいろ言っていたよ…」などと言われたら、それは私たちを一瞬ぎょっとさせる力を持つのだ。 ルーマンも別の箇所、きわめて重要な問題、すなわち、「情熱という愛の文化的な定義が愛を事象的に適切に叙述しているのかという疑い」 すなわち、「情熱的に愛する者にとって自らが愛し返されていないということを認識し受け入れることは極めて難しい(…)。しかし、まさにこの姿勢はほとんどあらかじめ定められているかのように、他者の現実の体験を取り逃がし、学習能力を欠き、そうして誤解を引き起こすということを帰結する」 つまり、上の他者の内での自己参照という一般的困難は愛の場面において通常よりも深刻に作用する。私たちにとって愛する相手の私たち自身への評価はあまりに重要であるために、それに適切に向き合うことは困難なのだ。 いずれにせよ、他者の現実の体験はとり逃され、理解が暗くなり、「学習能力」の欠如、いわゆる「独りよがり」を帰結することになる (2)第二は情報の問題である 愛のゼマンティクの歴史において重要な意味をもった「真の愛/偽の愛」という差異を例に考えてみよう。これは主要には女性が男性の振る舞いを読み解くための差異図式だが、ここで例えばある女性が青いバラは真の愛を表すが、赤いバラは偽の愛を表すといった「真の愛/偽の愛」の差異図式とそれに特定の事態を割り振るコードを持っていたとしよう。 このような差異図式とコード以前には、青いバラと赤いバラとの事実的差異は何の意味も持たなかった。つまり、そこには何らの情報価値もなかった。ただ、このような差異図式とコードがあるときには、事態は一変する。 愛する者は、適切に行為するために、すなわち、今回の例でいえば、青いバラを渡すために、愛される者が情報処理のための使用している以上のような差異図式とコードを適切に読み解かなければならないのだが 観察できるのは他者へのインプットと他者のアウトプットのみであり、そこから他者が情報処理に用いている差異図式とコードが推論されなければならない。 (3)第三はルーマンが「自己描出のための諸必要物と、そのために内的に用いられている簡略化」 ルーマンはこの言葉の意味についてほとんど説明していないが、私たちとしては、これを他者が事実的にどう世界と関わっているかに関係する(1)と(2)とは別の、他者の自己了解の理解の必然性を指し示すものとして読むことができよう。 他者は自らについて一定の見解、自己像、自己描出を持っており、そのために様々な要素、例えば、出自や経歴や職業や趣味や人生における諸々の出来事を「必要」としている。それらの物語的な編み合わせが他者の自己理解を構築しているのだ。 そしてその自己像は他者の事実的な全体に引き比べたとき、必然的に「簡略化」されたものである。この二つの、これまた目には見えないものを読み取ることで、愛する者は愛される者の「自己描出の妥当性の承認」を行わなければならないというわけである。 こうしてルーマンは他者の理解の困難さの諸契機を列挙する。愛する者は愛される者にある場合には先んじなければならないが、そのことを可能にするはずの「理解」は幾つもの見えないもの―それこそ、おそらく、「愛がなければ、視えない」もの―を見とおさなければならないのであって、それは「ほぼ不可能(Quasi-Unmöglichkeit)」 さて、私たちは前二項で愛の関係における「先取り」の重要性を明らかにした上で、それを可能にする「理解」の困難をあげつらったわけだが、ルーマンによる愛の困難、その「悲劇性」の列挙はまだ続く。それが「愛する者は行為しなければならず、愛される者は体験するだけでいい」という差異と連関する事態、すなわち、行為の原因の帰着に関して「行為者(愛する者)」と「観察者(愛される者)」の間に存在する齟齬である この事態をルーマンは「婚姻は天で結ばれ、車の中でバラバラになる」という言葉によって象徴させる。 すなわち、運転をしている能動的な「行為者」は自らの少々荒い運転の原因を「状況」に帰着させる傾向にあるのだが(「前の車が急ブレーキを踏んだんだ!」)、助手席に座って行為者の行為を見ている受動的な「観察者」はそれを行為者の「人格」、例えば、そこにおける「思いやり」の不在、ひいては「愛」の不在に帰着させる傾向にあるのである(「このひとは思いやりがない!」「このひとは私を大切に思っていない!」)。 この帰着の傾向にある違い、「状況」か「行為者の性質」かの違いは、行為者と観察者という立場の違い一般に通用するものだが、愛の関係では、観察者はさらに愛のしるしを求めており、行為者はより厳しい条件にさらされる。 ルーマンの整理によれば、行為者は自らの愛を示すために普段の自分を超え出ているという「意味の剰余」を生産しうる行為―要するに普段より頑張るという意味で「カッコつける」こと、普段とは違う「特別」を演出すること ここで行為者と観察者の齟齬一般は、観察者がこのような困難な愛のしるしを求めることによって、より危機的なものとなるわけだ。愛のしるしを求め、さらに一切を行為者の性質に帰着させる傾向にある観察者にとって、行為者の行為に見られるあらゆる瑕疵が行為者の人格的欠陥や愛の欠如を示唆するのである。 ルーマンが述べていることを敷衍してさらに言えば、観察者が見ることができないのは、行為者の振る舞いの規定要因として「状況」も大きな役割を果たしていること、その「状況」の中の最大の要素の一つが他ならぬ観察者自身であることであり、観察者はそのことを見ないことで、行為者の行為にある何らかの瑕疵について、行為者の「人格批判」を遂行できるのである もちろん、行為者にとってこの種の批判は時には受け入れがたいものだが、それを受け入れないことはしばしば二人の間の更なる対立を帰結するのである。さらに言えば、観察者による、行為者の瑕疵の行為者の「人格」への帰着は、観察者における行為者の人格に対する見限りを帰結し、しばしば関係の終わりの原因となるのだ。 もちろん、前段落の議論から行為者と観察者の齟齬といった複雑な理論的文脈を取り除いて、こう一般的に言うこともできるだろう。すなわち、親密関係における対立の多さは、お互いに対する期待が高いが故に期待はずれが起きやすいことに起因する、と。もちろん、ここで期待とは「確証」への期待、「私のことをわかってくれる」「私の意向に沿ってくれる」ことへの期待以外の何ものでもないのだが。この点については後にまた取り扱うことになる。 こうしてルーマン的な愛の困難、その「ほぼ不可能」性、その「悲劇性」が明らかになってきたように思われる。まとめよう。 「愛」は「愛される者」の「選択遂行」を「愛する者」へと「伝達」し、「愛する者」を「愛される者」の選択を確証することへと「動機」づけるコミュニケーション・メディアである。言い換えれば、「愛する者」は「愛される者」の選択を確証しなければならない。 だが、その選択は明示的な要求の行為として現れているとは限らない。だから「愛する者」は「愛される者」を理解し、いわばその潜在的意向を「察し」て、先取り的に選択を確証しなければならない。「愛する者」は「愛される者」の「(明示的要求という)行為」にではなく、むしろ、「体験」に応答しなければならないのだ。 だが、この他者の「理解」には様々な原理的困難がある。問題はそれだけではない。「愛する者」は「愛される者」の選択を確証しようと、簡単に言えば、「愛される者」を喜ばそうと、様々に能動的に「行為」するのだが、これを受動的に「観察」する「愛される者」は、非常に厳しい採点基準を持っているのみならず、「行為」する「愛する者」の瑕疵を、それはしばしば「愛される者」自身を含む「状況」にも規定されているにもかかわらず、「行為者」の人格に帰着させがちなのである。 もちろん、このことは「行為者」と「観察者」の対立を帰結するのみならず、しばしば、「行為者の人格」への見限りを通じて、関係の終わりを帰結してしまうのである。 しかるに、このような「不可能性」や「悲劇性」の強調はある意味でルーマンのいわばレトリカルな戦略とも言えるかもしれない。 というのは、ルーマンはここである決め台詞を吐くからである。「このありそうもないことをここでやはり可能にすること、それがコミュニケーション・メディアとしての愛の機能である」

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