歌舞伎 屋号 有名

歌舞伎役者は『○○屋』という屋号や、それぞれの一族を象徴する紋を所持しています。これから歌舞伎を見たいと思っている人は、この屋号や紋を深く知れば、歌舞伎が一層楽しくなるかもしれません。歌舞伎の歴史と、有名一門の屋号と紋を紹介します。能楽、人形浄瑠璃と並んで、日本の『国劇』と呼ばれるのが歌舞伎です。2009年にはユネスコの無形文化遺産にも登録され、海外からの関心も高くなっています。しかし伝統的な演劇だけに他にはない『決まり事』も多く、初めて見る人は敷居高く感じてしまうかもしれません。まずはここで、歌舞伎の基礎知識をざっとおさらいしてみましょう。歌舞伎のはじまりは、出雲の巫女だった『出雲の阿国』からと言われています。彼女は当時にしては斬新だった『男装』をして派手な舞を舞い、その踊りは『かぶき踊り』と呼ばれて人気を博しました。そしてこれが、『歌舞伎』の語源でもあります。元禄~宝暦年間(1688~1764年)には、新しい舞台演出や人気劇が次々と生まれ、『荒事・和事』といった芸風も確立されるなど、現在の歌舞伎のスタイルがほぼ完成しました。天保の改革(1841年)や戦後の復興期など一時衰退した時代もありましたが、歌舞伎役者たちの努力や新歌舞伎の登場で、歌舞伎はさらなる発展を遂げます。現在は積極的に海外公演を行ったり、漫画原作の演目を取り入れたりといった、新しい取り組みが盛んに行われています。歌舞伎ファンの裾野は、さらに広がっていると言えるでしょう。歌舞伎に限りませんが、古典芸能では先祖代々の芸名を子孫が受け継いでいきます。歌舞伎の場合は、受け継がれる名前を『名跡(みょうせき)』、名を受け継ぐことを『襲名(しゅうめい)』と呼び、新しい名前をもらった役者は、『襲名公演』でその事実を披露します。襲名の際、次の役者が受け継ぐのは名前だけではありません。彼らが受け継ぐのはそれぞれの家が築き上げてきた『芸風』であり、長く続いた伝統も受け継いでいくことになるのです。誕生から400年以上たっても歌舞伎が廃れないのは、歌舞伎が庶民の好みや文化の流行を積極的に取り入れ、多彩かつ柔軟に発展してきたためです。歌舞伎には決められた『型』や『様式』が数多くありますが、物語には世間が注目する大事件や人物を取り入れるなど、その時々の『旬』も取り入れています。このように大衆が望むものを貪欲に取りこんできたため、歌舞伎には演劇だけではなく音楽、舞踊など様々な要素が含まれるようになったのです。現在レパートリーが700種類以上あると言われる歌舞伎が『総合芸術』と呼ばれるのは、この懐の深さゆえではないでしょうか。歌舞伎役者の家系には、それぞれの紋と屋号があります。家紋は一般家庭にもあるため馴染みがありますが、屋号については知らない人も多いのではないでしょうか。ここでは、歌舞伎役者の紋と屋号について見てみましょう。歌舞伎役者はそれぞれ決まった文様を身に着け、役者の心意気やこだわりを示しました。この決まった文様が『紋』と呼ばれるもので、役者個人の『役者紋』、家を象徴する『定紋』などがあります。どちらかというと役者紋の方は気軽なもので、手ぬぐいや楽屋着の柄としてつかわれていたそうです。当時は人気役者の役者紋の入ったグッズが若者の間で大流行したと言います。これは現在アイドルグッズを購入して楽しむ感覚と、同じではないでしょうか。屋号は当時の歌舞伎役者が、商人を真似して○○屋、と付けたのが始まりといわれています。歌舞伎を見ていると、観客席から「よっ、○○屋!」という声がかかるのを聞いたことはありませんか?この○○屋というのが、歌舞伎役者の家の『屋号』です。『○○』の部分は役者の苗字ではなく、全く関係のない名前が呼ばれることが多いため、各家の屋号を知らないと意味がわからないかもしれません。それぞれ一族や一門ならではの出来事や事物に由来してつけられており、つけ方にルールはありません。詳しくは後の項目で見ていくので、そちらを確認してください。歌舞伎の屋号は100以上あり、相撲番付のように明確なランクは定められていません。しかし歌舞伎役者の家として古い伝統を持つほど重く見られる傾向はあるようです。一方家柄よりも『役者の実力』によって格が変わるという意見もあり、どの屋号が上、下とはっきりとは言いにくいようです。そんな中、誰もが『歌舞伎界のトップ』として認めるのが、『市川團十郎』を継ぐ『成田屋』です。成田屋は名門一族の中でも特に歴史が古いうえ、常に歌舞伎の中心的役割を果たしてきました。そのため、『歌舞伎界の名門中の名門』として認知されているのです。客席から「よっ、○○屋」と聞くと、歌舞伎らしさを感じる人は多いでしょう。この掛け声を放つ人、または掛け声そのものは『大向こう』と呼ばれ、歌舞伎の舞台にはなくてはならない存在です。歌舞伎の大向こうは、舞台を盛り上げるという役割があります。昔の日本人は、舞台等を見た後、拍手ではなく『囃す』ことで感動を伝えていました。歌舞伎ではその囃しが洗練され、大向こうとなって残っているのではと考えられます。現代でもアイドルコンサートでは観客が一斉に名前を読んだりするでしょう。歌舞伎の掛け声もそのようにして始まったのです。大向こうがかかれば客席と舞台に一体感が生まれるうえ、演じている役者も気分が乗ってくるというメリットがあります。基本的に、誰でも歌舞伎役者の屋号を叫ぶことはできます。しかしベストなタイミングで上手に屋号を叫ぶのは難しく、聞こえてくる声の多くは、『大向こう組織』の会員によるものでしょう。この組織は東京に弥生会、寿会、声友会があり、大阪・名古屋・九州にもあります。誰でも会員になれるわけではなく、基本的には劇場で会員からのスカウトを受けた歌舞伎ファンのみが対象で、厳密な入会審査を受けてからの入会となるようです。大向こうの組織には歌舞伎役者から掛け声の依頼が来ることもあり、歌舞伎を盛り上げる重要な役割を果たしています。歌舞伎では屋号を叫ぶ資格等はなく、基本的に誰でも屋号を叫ぶことはできます。ただし歌舞伎座などは劇場の雰囲気に圧倒される人が多いため、いざとなると声がでないという人の方が多いようです。また、タイミングを誤ると歌舞伎役者が演じにくくなるため、「このタイミングだ」ということがはっきりわかる程度には、演目を理解していることも必要です。声をかける時は、単なる『下品なヤジ』にならないよう注意しましょう。前述のとおり、掛け声は役者の演技を妨げないように、タイミングを見計らわなければなりません。演目によっては『このタイミング』と決まっているものもあるため、良く見極めてから声をかけましょう。掛け声をかけやすいタイミングとしては、役者が見えを切った後やキメ台詞の後がおすすめです。やってみたいけれど1人では恥ずかしいという場合は、大向こうがかかったタイミングに便乗して叫べば、安心です。冷やかしやヤジは厳禁ですが、掛け声は劇場が賑やかになるため、歓迎されます。歌舞伎以外で注目されることが多いのが、市川宗家率いる『成田屋』です。成田屋は、歌舞伎の始まりから現在まで、常に歌舞伎界の中心に存在しています。歌舞伎を語る上で、決して外すことのできない名門と言えるでしょう。成田屋の代表名跡は『市川團十郎』です。この名跡は成田屋だけではなく、歌舞伎界全体から見ても最も権威ある名跡と考えられています。2013年に死去した『12代目團十郎』は、スケールの大きな芝居が特徴で、お家芸の『歌舞伎十八番』も見事にこなしました。紫綬褒章やフランス芸術文化勲章など多くの賞を受けており、死後も日本政府より正五位並びに旭日中綬章が授与されています。またそのあとを継ぐと見られる市川海老蔵は、『歌舞伎界のプリンス』ともいわれるほどの人気です。歌舞伎役者としての華やかさ実力は、同世代の役者から抜きんでています。主な役者名は次のとおりです。成田屋の紋は3つの桝を重ねた『三桝紋』です。この紋の由来は、初代團十郎が初舞台を踏んだ時、贔屓の客から桝を3つ贈られたことに由来しています。紋は成田屋のお家芸である『歌舞伎十八番』はじめ、いろいろなシーンで見ることができます。成田屋という屋号は、初代市川團十郎が、父の時代から縁のあった『成田山新勝寺』に子宝祈願に出かけたことに由来しています。祈願の翌年2代目を授かることができた團十郎は、感謝の意を表すため『成田不動明王山』を上演しました。上演は大好評を博し、成田屋と市川家双方に大きな益をもたらしました。これをきっかけに市川家の屋号は『成田屋』とされたのです。市川家・成田山双方の結びつきは強く、現在でも市川家は新勝寺との縁を大切にしています。毎年の『新勝寺詣』は必ず報道されるため、テレビで見たことのある人も多いのではないでしょうか。成田屋と並んで人気が高いのが中村屋です。18代中村勘三郎が人気俳優だったこと、息子たちもテレビで活躍していることなどから、歌舞伎を知らない人にも良く知られています。中村屋の代表名跡は『中村勘三郎』で、現在は18代目です。このうち17代目勘三郎は、生涯通算800役以上をこなしたとしてギネスブックに登録されるなど、精力的に活動したことで知られています。また、18代目勘三郎は『コクーン歌舞伎』や『平成中村座』を立ち上げるなど、歌舞伎の発展に大きく寄与しまたことで知られています。しかし2012年に57歳でなくなったため、現在勘三郎の名跡は空席です。貫九郎・七之助は勘三郎の息子で、兄勘九郎は立役が多いのに対し、弟七之助は実力派女方として知られています。主な役者名は次のとおりです。中村屋の紋は『江戸三座』と呼ばれた『中村座』の定紋に由来する『角切銀杏(すみきりいちょう)』です。鶴が翼を広げたようだとも末広の扇のようでめでたいともいわれ、中村屋の衣装やグッズに使われています。中村屋という屋号は、前述の『中村座』から取られたものですが、この屋号になったのは昭和25年(1950年)のことです。初代中村勘三郎は歌舞伎役者であると同時に、中村座の座長でもありました。よって勘三郎という名跡を継ぐことは劇場経営と役者を兼ねることになりましたが、実際に役者として舞台に立つ人は少なかったようです。明治に入って劇場経営権がなくなると、勘三郎を名乗る者もなくなったため、勘三郎は『預かり名跡』として実態のないまま残ります。この名跡を復活させたのが、17代勘三郎でした。勘三郎は幕末以降途絶えていた名跡を襲名すると同時に、屋号を『中村屋』と改めました。成田屋と中村屋はともに非常に有名な一門であると同時に、互いに深くかかわりあって歌舞伎界を支えてきました。この2つの屋号の成り立ちと関係性については、こちらの記事でさらに詳しく解説しています。音羽屋は演技派の一家として広く認められており、『弁天小僧』という有名な演目を所持しています。また成田屋の『歌舞伎十八番』に倣った『新古演劇十種』も、音羽屋特有の演目として知られています。もともとは上方・京都の家でしたが、初代尾上菊五郎が2代目市川團十郎に認められたことから、江戸に移り住むようになりました。音羽屋の代表名跡は『尾上菊五郎』です。『人間国宝』として認定された役者も多く、歌舞伎界での存在感はかなり大きいと言えるでしょう。特に6代目尾上菊五郎は人気・実力とも比べるものが無いといわれており、『歌舞伎の神様』とも呼ばれました。現在もその芸の素晴らしさは語り継がれており、歌舞伎の世界で『6代目』といえば、『6代目尾上菊五郎』その人を指すほどです。音羽屋の紋は『重ね扇に抱柏』です。これは贔屓筋から扇に載せた柏餅を受け取る際、こちらも扇で受け取ったことに由来しています。この紋は初代尾上菊之助の衣装にも美しく染め抜かれています。音羽屋という名前は、京都・清水寺の境内にある『音羽の滝』に由来しています。初代尾上菊五郎の父は、滝のある清水寺近くで生まれたため、自らを『音羽屋半平』と名乗っていました。菊五郎はこれをそのまま屋号にしたため、音羽屋が屋号になったのです。成駒屋はもともと上方の一家でしたが、3代目中村歌右衛門が居を江戸に移しました。こちらも苗字は『中村』なので『中村屋』と間違えてしまう人が多いようです。成駒屋の代表名跡は中村歌右衛門です。4代目までは立役でしたが、5代目以降は女形として活躍しています。また現在の成駒屋の役者としては、テレビドラマなどでよく見る『中村芝翫(なかむらしかん)』が人気です。姉が18代中村勘三郎の妻であるため、2人が『義兄弟』というのはご存知の人も多いでしょう。中村姓を名乗る役者は多いですが、『勘三郎系』と『富十郎系』を除くすべてが成駒屋の『歌右衛門系』に属します。主な役者名は次のとおりです。成駒屋の紋は『祇園守(ぎおんまもり)』です。これは初代中村歌右衛門が、京都の八坂神社で芸道の大成を祈願したことに由来しています。紋の中央にあるのが護符の巻物です。成駒屋の屋号は、初代と3代目は『加賀屋』、2代目は『蛭子屋』、4代目以降は『成駒屋』です。現在の成駒屋という屋号は、4代目中村歌右衛門が4代目市川團十郎より『成駒柄』の着物を贈られたことに由来しています。また、同じく『中村鴈治郎』一家も成駒屋と名乗っていましたが、2014年の4代目襲名時に『成駒家』へと改めました。これにより、成駒屋という名前は『歌右衛門系』のみの屋号となりました。歌舞伎を見て役者の演技に感動したら、声をかけたくなるかもしれません。そんな時に役者の屋号を知っていれば、堂々と「○○屋!」と声を張ることができます。また紋だけで役者の家が分かれば、歌舞伎通として、自慢のネタにもなるでしょう。歌舞伎ではちょっとした事前学習が、観劇をより楽しくしてくれます。「なるほど」と思うことが増えれば、敷居高く感じていた歌舞伎の世界も、より身近に感じることができるのではないでしょうか。まずは屋号や紋を覚えて、劇場に足を運んでみましょう。

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